弥生3月も今日でおしまい。3月は学校では卒業や転校、企業では異動などで別れの多い季節ですね。
私が昨年7月に赴任した諏訪では、この3月に同業他社の諏訪責任者が相次いで異動となり、いつの間にか在任9か月で古株になってしまいました。
さて、この時期になると思い出すことがあります。前にも似たような記事を書いた気もしますが、今日はちょっと、私の昔話にお付き合いください。
私が通った小学校は、当時はまだ上田市に合併前の町立小学校で、児童数は学年によって差があり、1学年1クラスから2クラスという小規模校でした。戦前、小津安二郎の映画『一人息子』のロケ場所にもなった学校で、当時のままの古びた木造校舎でしたが、木のぬくもりを感じる素晴らしい校舎だったと思います。
私たちの学年は1クラスが27~8名の2クラスで、ひとつ上の学年は30数名で1クラスでしたから、当時の基準だと40名を越えると2つのクラスに分けるという事だったのでしょう。
クラスの担任になられたのは、直前までは中学校で音楽の教諭をしていたK先生。細身で背が高く、とてもピアノが上手でした。普通なら学校で習わないような歌、例えば『巨人の星』のテーマソングや札幌オリンピックのイメージソングだった『虹と雪のバラード』などを、教室にあったオルガンで弾きながらみんなで歌ったものでした。下校前には必ず全員で『今日の日はさようなら』を歌ってから帰るというのが決まりでした。
普段は優しい先生でしたが、悪さをするとゲンコツが落ちました。今なら体罰と大騒ぎになるのでしょうが、当時の先生は自分の親と一緒、悪い事は悪いと体で覚えさせられるのが当たり前だったのです。
今思い返すとK先生が何より重視していたのは、子供たちに体力をつけさせることだったと感じます。まだ梅雨に入る前の肌寒い時期、毎年プール掃除は私たちのクラスの仕事でした。デッキブラシで冬の間にたまった藻をこすり落とし、きれいになったプールに水を張ったら、どのクラスよりも先に水泳の授業が始まります。逆飛び込みも1年生からやらされました。出来ない子は、先生が最初は抱いてプールに投げ込み、水に慣れたらプールサイドに立たせて足をすくい上げて落とすのです。否応なく、全員飛び込みが出来るようになりました。スパルタ教育を地で行く授業(?)でしたね。カリキュラムなどほぼ関係なく、プールが空いている時間は教科を変更して水泳になりました。他の学年に比べたら、たぶん倍くらいの時間泳いでいたと思います。
体育だけでなく、授業をつぶして半日山歩きでキノコ採りなんて事もありましたね。
冬になると、今度はスケートです。毎日1時間目(氷が融けない時間)は、だいたいスケートでした。学校の裏の田んぼに水を張ったリンクで、良く滑ったものでした。
4年生になった時まで、K先生は6年間担任を続けてくれるものだと、私は勝手に思い込んでいました。3月に入った頃、先生が「みんな入学の頃に比べたら大きくなったなあ。どのくらい大きくなったか比べるのに、写真を撮ろう」と言いました。K先生はペンタックスの一眼レフを持っていて、遠足や学芸会、運動会などの学校行事の写真を良く撮ってくれていましたから、別段変わった事でもないので、気に留めなかったのです。
校庭の滑り台のところに行き、名簿順に滑り下りてきます。途中で止まって、先生と握手をしているところをセルフタイマーで撮影するわけです。私は4月6日生まれなので、名簿の1番でした。要領がつかめないまま写真撮影が終わり、「写真がもらえるのはいつかな?」なんて思っただけでした。
そして終業式の日、式が終わる前に、異動する先生の発表が校長先生から発表されました。するとそこにK先生も含まれていたのです。全く予期していなかったので、驚いたというより事態が呑み込めなかったというのが、その時の心境でした。
教室に戻り、先生から初めて転勤の話を聞きました。隣町の中学校の音楽の先生になるという話でした(これには後日談があります。私が高校に入学した時、その赴任先の中学でK先生が担任したクラスの卒業生と同級生になったのです)。クラスのほとんどの子が泣き出してしまいました。通知表を一人一人に手渡しながら、頭をなでてくれましたが、私はただただ泣いているばかりで、ちゃんとお礼も言えませんでした。
その後、先生にお会いしたのは中学校の頃に一回か二回しかありませんでした。毎年、年賀状のやり取りはありましたが、先生からの年賀状は達筆な筆字で、いつもひと言激励の言葉が書かれていました。就職して上田に戻った時、そして結婚してから転勤を何度か繰り返して上田に戻った時、一度挨拶に伺いたいと思っていたのですが、車で10分ほどの場所に住まわれていたのに、結局その機会がありませんでした。
ある年、いつも届くはずの先生からの年賀状が送られて来ませんでした。後から友人(中学で担任だった、高校の同級生)に、その前年に先生が亡くなられたと聞き、なぜお元気なうちに会いに伺わなかったのかと、とても悔みました。ひと言だけでも、しっかりとお礼を言いたかったのです。
子供の頃、私は、K先生は誰からも尊敬されている先生だと信じて疑わなかったのですが、あとから聞いた話では、何人かの保護者からは「うちの子供は、家ではちゃんと勉強が出来るのに、なぜ学校に行くと出来ないと言われるのか?」という様なクレームを言われていたようです。私に言わせれば、その子の出来が悪い上に親の出来も悪いというのが正直なところですが、今も昔も、教師にはそういう苦労が多かったのですね。今でいうモンスター・ペアレントでしょう。
昭和ひと桁生まれだったK先生は、戦時中のご苦労も多かったせいか、ご自身が体験したような辛い思いを私たちにはさせたくなかったと強く思われていたようです。国語の副教材や読書の選書には、戦時中の事を書いた物が多くありました。良く覚えているのは『とらちゃんの日記』です。疎開とか食糧難とか、戦後20年を過ぎて「あれはもう昔の事」という風潮がどこかにあったからだと思います。
明日からは4月、新年度のスタートですね。