長野県の県歌『信濃の国』。
長野県に生まれ育った人なら、ほぼ100%の人が歌えます(2番くらいまで)。これ、事実です。
 
私たちが小中学生だった頃、入学式や卒業式で歌うのは、校歌とこの『信濃の国』でした。
 
明治31年(1898年)に県歌に制定された『信濃の国』には、多くのいわくがあります。
 
明治初期の廃藩置県とその後の統廃合により、現在の長野県は長野市を県庁所在地とする長野県と、松本市を県庁所在地とする筑摩県の2つに統合されました。その後明治9年(1876年)に筑摩県庁が火事により焼失、それを契機に筑摩県を長野県に統合し、現在の長野県が出来上がります。
 
地図を見ると理解出来ますが、長野市は長野県のかなり北に位置しており、南部の飯田市から長野市まで出掛けるとすると、高速道路を使っても2時間以上かかります。飯田からだと、むしろ名古屋に出た方が早いのです。
 
筑摩県統合以来、松本を中心とする中信地区と諏訪・伊那・飯田の南信地区は、長野市を中心とする北信地区に対して南北戦争と言われるくらいにライバル意識があり、何かにつけて南北格差の問題が発生してきました。そんな長野県の成り立ちから、全ての県民がひとつの県としてふるさとを愛せるようにとの思いから作られたのが、『信濃の国』というわけです。
 
戦後になり、昭和23年(1948年)の第74回定例県議会に於いて、中南信地区出身議員から旧筑摩県の分県案が提出されました。当時の県議会は東(上田・小諸・佐久)北信出身議員25名、中南信出身議員25名の構成で、議長を北信地区の議員が務めていたことから、そのまま議案の採決まで進むと、分県推進派が多数を占めるという結果となりそうな状況となりました。
 
議決に進もうとした時、議会を傍聴していた県民の中から、突如この『信濃の国』の合唱が始まり、議事堂を取り巻いていた分県反対派の人々も巻き込み、大合唱となったのだそうです。それを聞いた分県推進派の県議たちは、「県を分けたらこの歌が歌えなくなる」という事で一気に勢いがなくなり、分県運動が潰えたというのです。
 
そうした経緯があったからでしょうか、学校行事や地区の行事、果ては全国の県人会などでも必ず歌われており、なんと通信カラオケにもしっかりと選曲されているという珍しい県歌なのです。
 
「ご出身は?」と聞いて、「私、長野県の○○町で・・・」と答えが返ってくれば、
「しーなーのーのくーにーはー じーっしゅううにー」と歌い始めると、そこからは2人で「さーかいつらぬるくーににしてー そーびゆるやーまはいやたーかくー・・・」と完璧に歌えます(笑)。
 
他と比べ、かなり特異な県民性を持つと言われる長野県民。例えば全国的には支持率20%を超えるという『維新の会』ですが、長野県ではわずか4~5%の支持しかないという事実が、それを如実に物語っています。実は地域ごとに違った文化を持ち、ひと括りで“長野県民”とは言えない部分も多くありますが、それをひとつにまとめる根底にあるのは、この『信濃の国』に歌われた郷土への誇りなのかも知れません。
 
分県騒動などの歴史があるせいか、今でも東北信出身者は「生まれは長野です」と言い、中南信出身者は比較的「信州出身です」と言う人が多いような気もします。
 
そんな事も考えると、県歌『信濃の国』は、まだまだ大切に歌い続けていかなくてはいけないようです。